孤独の発明

年が明けてからだろうか。遥か前からだろうか。感動をしなくなった。

他者に対しては感動をしている、という自分を表す言葉を自動的に発することができる。ほぼ習慣化したこの言葉はただ、ただ、無意識に出る。

まるでパズルをはめているかのような感覚で生が推移している。このパズルは成功や失敗に一喜一憂しない。本来パズルというものは楽しいはずなのだが。

以前に患った『企業病』的な言葉に支配される感覚とは別の感覚で、また、自分の言葉はどこかへ行ってしまったようだ。少し戻ったと思ったのに。

思い返すと、感動を人生で何回したのだろうか。かろうじて『夕陽が綺麗』のような自然が生み出した感動。これは素直に身体がシンパシーを感じていたように思う。

しかし、人が生み出したもののどこに感動があったのだろうか。

ものか、ことばか、行為か。

思い返すと、無い。

そしてあったのかもしれないが記憶に、無い。

救われたという言葉、行為はある。

しかし、感動ではない。

ものからは、質の高さや、手間暇、美学、狂気を感じることはできる。

しかし、感動ではない。

わたしはものを見るときに、なるべく感覚で感受することを先行することにつとめた。これは学生のときに美術商の人に聞いたことだ。それを守ってきた。それをつづけると、自分なりの美の形は作られてきた。

しかしながら、感動にはいたらない。

それは半ば鍛錬に他者の作品を使っているのではという思いにもいたった。よく、ある作品に猛烈に感動し工芸の世界に入った、という人が羨ましく思う。

これは、わたしが孤独を選んできたからなのかと、思った。

それは与えられた孤独ではなく、自ら選択した孤独。選択がなければ発明してしまった孤独。デザインされた孤独。

ひとりっ子のわたしは数々のみんなに支えられて生きていたのだがそれの反動としての孤独を私自身が作り出している気がしている。

『孤独の発明』とはポールオースターという作家の著書のタイトルだ。以前触れたことがある著書だが最近見返してみた。

痕跡のない父の影を追い求め、所々に父が孤独を選択してきた残骸を発見するという内容のものだ。

紛れもなくその虚しい父はわたしだった。

そしてその父になりたくないと思った。

わたしはものづくりの人だ。その果ては孤独までも発明してしまうのか。

自ら選択した孤独は英語でsolitude と訳せるらしい。満足し、一人になるということだ。

しかし、今の感覚は違う。

寂しさがあり、憂いがあり、諦めがあり、その外側で、わたしが発明したわたしという機械が外界の処理を行なっている気がするのだ。それはsolitude ではなくloneliness という。

わたしはわたしを見失ってしまったようだ。機械のわたしはいつもそこにいる。周りは誰もわたしを見失うことはない。

おそらくわたしはその父にはなりたくない。

発明した孤独に対峙し作品を作ってみることにする。ようやく隠れていたわたしがいるようにもみえる。しかしその先は見えない。

発明した孤独を、さらに発明したら次の孤独はみえてくるのだろうか。

過去と記憶

過去。それは見ないことでしかみえない記憶。

わたしは、あまり過去を記憶しておくことが得意ではない。

現在が過去になったと同時に輪郭が曖昧になる。

それは思い出すたびに姿を変えてわたしの前にあらわれる。

それらは、やがて茶色味を帯びた色彩となり、消失し思い出すことはなくなる。

たいせつなひととの会話も

家族の背中も

匂いも、音も、全て

わたしは、現在という点のみに存在し、未来へ推移し続けている。

わたしの記憶の中の過去は、「未だ見ぬ未来」である。

その消えゆく過去は、わたしの手で今、現像させればよい。

そのためにはひたすら透明で、いかなる角度からも感受できる状態でなければならない。

たゆたいながらかたちを変える一瞬を、今つかまえてみる。

2021年作文再編

The past. It is a memory that can only be seen by not looking at it.

I am not very good at remembering the past.

As soon as the present becomes the past, its outline becomes vague.

Each time I recall it, it appears before me in a different form.

Eventually, they become brownish in color, disappear, and are no longer recalled.

Conversations with important people

The backs of family members

smells, sounds, everything

I exist only in the present and continue to move into the future.

The past in my memory is "the future I have not yet seen.

The fading past can be made to appear now by my hands.

To do so, the image must be transparent, and it must be perceptible from any angle.

I will try to seize the moment that is changing its shape as it flutters about.

デジタルとアナログ #1

物心ついてから一番最初に絵や字を書いたのは広告の裏紙だったような気がする。

長崎新聞を取っていたのでたくさんの広告が挟まってくる。youtubeやインターネットもない中、田舎の娯楽の一つに広告を見る、ということが入っていたように感じる。小学生だった私は、おもちゃ屋や家電屋の広告を漁り、思いを馳せていた。その中でも文字の情報に心惹かれ、『おひとり様一個限り』とか『oo店限定』などの言葉に心を踊らされていた。

当時から書くことや作ることが好きだった私は、広告の裏に色々なものを書くようになる。あなたは広告の裏とハサミとノリとペンを渡せばどこでも静かになると言われたことを思い出す。

しかし、その時から『絵』を書くことは苦手だった。似顔絵は似ないし、いとこの絵の方がマイケルジョーダンはそっくりだった。ただ、広告の裏にペンを滑らせることはやめられなかった。

その頃から、いろいろなロゴマークを書写し始めた。プロダクトのパッケージなどを真似て書くようになった。それらに共通するのは文字が書かれていることである。

その中には、テレビなどのメディアでしか露出しない要素も含まれていた、私は書写をすることに一つの達成感を覚え、繰り返しそれを書き写していた。

今を思うと当時から私の源泉は自然に囲まれながらも、それから脱却するための均質なデザインを求めていたのかもしれない。

中学生になる頃にはそれも顕著になった。携帯電話が普及し始め、親に交渉し夜のみ使わせてもらえるようになった。また、家庭用のデスクトップPCが普及し始め、これまた交渉を重ねiyamaのwindows98機を置かせてもらえるようになった。幼少から家庭用ゲーム機を禁止されていた家庭からすると全く新しい門が開かれた瞬間であった。

そこからは、デジタル端末上での文字に熱中する中高を過ごす。大切な人への大切な言葉もコード化され、ドット化され他者に伝わるようになる。私はその嬉しい文字を噛み締めてにやけて床についていた記憶がある。しかしながら今になって、それらの文字は文字コードというものに変換され端末で表示されていたことを知る。そのものの本質は数字やアルファベットであった。

しかしながら、私はその本質的なコードで大切な言葉を贈られたとしても今の日本語共々に愛せるのではないかと思う。なぜならば、モノ思いついてから今まで、商業、工業、デジタルの間で育っているからだ。親は工芸家なのだが、思春期にその教えを乞うたことはなかった。むしろそれに反発するように、均質に、無気な趣向を辿っていったようだ。

今、この文章は書写をする必要はない。デジタル空間上に浮かんでいる以上、安易にコピーアンドペーストをし、他の領域に移すことができる。そして最近は広告の『裏』というのも存在しないらしい。両面印刷になってしまったから。

皆それぞれ嬉しい言葉は違うと思う。デジタルとアナログが変遷する1990-2000付近を生きた私にとっては文字は、コードや、ドットや、滅びた端末などどのような形であれ、自分や他者の記憶に存在していればよいと感じる。それが自分や他者の明日を生き延びることができる非物質的な媒体として存在するのであれば。

振り返ると、幼少期からデジタルが台頭しつつもアナログを取り入れながら今に至っている。そのバランスの果てがデザインであり今まで学んできたプロダクトデザインなのかもしれない。なので、これからはこいつと共存してみようと思った次第である。

I think the first thing I ever drew or wrote was on the backs of advertisements.

I took the Nagasaki Shimbun newspaper, so there were many advertisements inserted into the paper, and in the absence of Youtube and the Internet, I feel that looking at advertisements was one of the entertainment options in the countryside. As an elementary school student, I would fish through ads in toy stores and electronics stores and ponder. Among them, I was fascinated by the written information, and words like "only one per person" or "ooo store only" made my heart dance.

Having always loved writing and creating since those days, I began to write various things on the backs of advertisements. I recall being told that all you had to do was give me the back of an ad, a pair of scissors, some glue, and a pen, and I would be quiet anywhere.

But from that time on, I was not good at writing 'drawings'. The portraits didn't look like me, and Michael Jordan looked more like my cousin's drawings. However, I couldn't stop sliding my pen on the back of advertisements.

Around that time, I started copying various logos. I began to write in imitation of product packaging and the like. What they all have in common is that they have letters written on them.

I felt a sense of accomplishment in transcribing them and repeatedly copied them.

Looking back now, perhaps my wellspring from then on was the search for a homogeneous design that would allow me to break away from it while still being surrounded by nature.

By the time I reached junior high school, this also became evident. Cell phones began to become popular, and I negotiated with my parents to be allowed to use them only at night. Moreover, the desktop PC for home use began to spread, and I was allowed to put the Windows98 machine of iyama after negotiating again. From a family where home video game consoles had been prohibited since childhood, this was the moment when a completely new gate was opened for us.

From there, he spent his junior and senior high school years absorbed in writing on a digital terminal. Even my precious words to my loved ones were coded and dotted, so that they could be conveyed to others. I remember being on the floor with a smile on my face as I chewed those happy letters. Now, however, I realize that those letters were converted into a character code and displayed on the terminal. The essence of those letters were numbers and alphabets.

However, I think that I could love the Japanese language together with the present Japanese language even if I had been given an important word in that essential code. I am not a craftsman because I have grown up between commercial, industrial, and digital from the time I was conceived of until now. My parents are craftspeople, but I never begged them to teach me that when I was an adolescent. Rather, I seem to have followed a homogeneous, unambitious taste that rebelled against it.

Now, this text does not need to be transcribed. As long as it is floating in digital space, it can be easily copied and pasted and transferred to other areas. And these days, it seems that the "backside" of an advertisement doesn't exist either. Because it's now printed on both sides.

I think everyone has a different word that makes them happy. For me, who lived through the transition between digital and analog from 1990 to 2000, I feel that letters, whether in the form of codes, dots, or obsolete terminals, should exist in the memories of myself and others. If it exists as an immaterial medium through which I and others can survive tomorrow.

Looking back, since my childhood, I have been incorporating the analog world while the digital world has been on the rise. Perhaps the end of this process is design and the product design I have studied up to now. So, from now on, I would like to try to coexist with it.

ことばを選ぶ

わたしは、自分の口から出る言葉が、わたしの思いとはまるで違うことをしゃべり出すことに頭を抱えていた。

わたしの声帯から先に、別の人格が存在する。そいつはいつもあたりさわりのない言葉を得意げにしゃべり、業界で流通している「用語」を組みこみながら、ひとりひとりの棘を摘むようにしてあいまいな世界にみんなを連れていくようなことをする。

「わたしの言葉は、わたしじゃない」

これ以上遠いところにいってしまうと、取り返しのつかないことになってしまう。この経験からわたしは「ことば、言語、文字」に興味を持つこととなった。

方言のきつい長崎で生まれ育ったわたしは、高校まで当然のように現地の方言を使っていた。その時は、わたしと言葉は一つだった。しかしながら大学、社会人と全く異なる方言の土地で暮らした。そもそも染まりやすい体質だったこともあり、わたしは色々な土地の要素を組み合わせたキメラのような言葉を使うようになる。

その中でも「企業弁」とでもいえようか、会社独自の言語のルールみたいなものにも染まってしまったのだろう。謎の英単語、衝突を避けることができるグレーで便利な用語などが知らず知らずのうちにわたしの中に入り込み、ちゃっかりと居場所を獲得していた。「俺たちは便利だからいつでも使ってくれ」とニヤニヤしながら腹の底にしまわれて出番を待っている。

わたしは、楽でだれにも嫌われず、すごいやつだと錯覚させる言葉を自動的に選択するクセがついていたようだ。その結果がこの「言葉の剥離」であった。まるで機械のように楽な言葉が出てくる自動機械だ。ひたすら悩まされていた。

ある日、ひょんな事で知り合いになった友人にこの話をしたところ、興味を持ってくれた。その友人は、喋り言葉、話し言葉に対して真正面から向き合って来たことがよくわかる人だ。ある時、言葉を選ぶことの重要性について語ってくれた。

「ものを書く時、自分の心臓を取り出してそれを卓上に置き、その痛みと鼓動を感じながら真剣に言葉を選ばなければいけない」

わたしは猛省した。同時に閃光が走った。今までわたしが紡いだ言葉たちはどうだったのだろうか。それは誰のための言葉だったのだろうか。これはわたしの言葉であると自信をもって言える文章など、果たしていままであったのだろうか。これは書き言葉の話ではあるが、話し言葉でもおなじだと思った。

そしてその直後、これまたたまたま読んだ著書の中に、世紀末ウイーンに活躍した作家であるカールクラウスの言葉が書かれていた。

「言葉を選ぶ責任は最も重いものであるが、同時にもっとも軽んじられている責任である」と。当時、ヒトラーの台頭への恐怖を感じていた彼は、同時に次のようなことも書いていた。

「常套句の無自覚な使用が戦争を引き起こす」

「退屈なことではあるが、言葉を選び取る実習が必要なのだ」

クラウスはそれが戦争を避ける手段だと本気で思っていたようだ。しかしながら、クラウスの警鐘もむなしく、ナチスの宣伝省の策略通り戦争へと突入するのである。

長崎で育ったわたしは、雲の無い青空を見ると、わたしは哀しくなる。その時代には生きていないが、その夏の空気は感じることができる。

わたしは、言葉や文字を探すことを諦めないようにする。そしてそれらで翻訳できないものは作ってしまえばいいと思っている。

この夏の空を青いままに保つために、手で考え、心で紡ぐことをやめない。

I was troubled by the fact that the words coming out of my mouth were not what I thought they were.

There is another personality that exists beyond my vocal cords. He always speaks in a casual way, incorporating industry-circulated "terminology," as if he were plucking at the thorns of each person and taking them into an ambiguous world.

"My words are not me.

If I go any farther, I'll never be able to get it back. From this experience, I became interested in words, language, and writing.

Born and raised in Nagasaki, a city with a strong dialect, I used the local dialect as a matter of course until high school. At that time, language was one with me. However, during my college and adult life, I lived in a place with a completely different dialect. As I was easily tainted to begin with, I began to use a kind of chimeric language that combined elements from many different places.

Among them, I guess I was tainted by the "corporate dialect," or the rules of the company's own language. Mysterious English words, gray and convenient terms that could avoid conflicts, etc., unwittingly found their way into my mind and earned their place. "They are tucked away in the pit of my stomach, waiting for their turn, grinning and saying, "We're useful, use us anytime.

I seem to have developed a habit of automatically choosing words that are easy to use, that no one hates, and that give the illusion of being a great guy. The result was this "word detachment. It's like a machine, an automatic machine that comes up with words that are easy to say. It had been bothering me for a long time.

One day, I told this story to a friend of mine who happened to know me, and he was interested in it. This friend is a person who has faced the spoken word and the spoken word head on. One day, he told me about the importance of choosing the right words.

"He told me one day about the importance of word choice: "When you write, you have to take your heart out and put it on the table, feel its pain and beat, and choose your words seriously.

I thought hard. At the same time, a flash of lightning hit me. What about all the words I had spun so far? Who were they for? Was there ever a sentence that I could say with confidence that it was my own? This is a story about the written word, but I thought it was the same for the spoken word.

Right after that, I happened to read a book by Karl Kraus, who was a writer active in Vienna at the end of the century.

"He said, "The responsibility of choosing words is the heaviest, but also the most neglected responsibility. At the time, he was terrified of Hitler's rise to power, but at the same time, he wrote: "The unconsciousness of the common phrase is the most important thing.

"The unconscious use of common phrases causes war.

"It is a tedious but necessary exercise in word choice."

It seems that Klaus really believed that this was the way to avoid war. However, Klaus's warning bells failed to sound, and the country plunged into war as the Nazi Propaganda Ministry had planned.

Having grown up in Nagasaki, when I see a cloudless blue sky, I feel sad. Although I did not live in that era, I can feel the summer air.

I try not to give up looking for words and letters. I try not to give up looking for words and letters, and if I can't translate them, I think I should just make them up.

In order to keep this summer sky blue, I will not stop thinking with my hands and spinning with my heart.

利他とは何か

「利他とは何か」という著書を読んでいる。 利他について5名の学者が持論を展開している本だ。

わたしは、この一年で激的に考え方が変わった。 それのキーとなるワードが利他である。 施しや贈与といった言葉を含む解釈の難しい言葉だ。 本を読んでいて少し昔のことを思い出した。

わたしは、2015年の5月から6月まで、前職の仕事で1ヶ月間パリに単身滞在した。 パリ市内2区にあるグランプールヴァール駅から徒歩5分のアパルトマンから職場の1区まで徒歩で通勤をしていた。

朝7時にはアパルトマンを出発し、1区のカフェで朝飯を食べて8時ごろ始業。 その時々で終わる時間は異なるが、大体14時には終業した。 その後、市内を歩き回ったり、美術館に行ったりと大人の夏休みのような過ごし方をさせていただいた。 今思うと前職の方々に頭が上がらない。本当に感謝している。

その時に体験したことで、妙に記憶に残っていることがある。

初めて職場に通勤する時、パン屋の右角に物乞いの老婆が地べたに座っていた。 紺色のローブを着ていたと思う。灰色の髪で黒ずんだ肌だった。 よく物乞いの方は犬を連れていたり、段ボールの看板に「SVP」と書いて立てかけた方が多かったのだが、 彼女は何も持たず、ただ小銭を入れるカップのみを体の前側に置いていた。

わたしはその老婆のいる歩道を通って職場の方角に歩く。 彼女の右隣を通ろうとしたその時 「Bonjour」 としゃがれた、ゆっくりとした声で私に挨拶をした。 私は、その挨拶を無視し、1区へと向かった。

無視した理由もはっきりと覚えている。 その前年に行ったインドネシアでの出来事。

外のテラスでやたら辛くて脂っこいランチを食べていた時、わたしの背後に物乞いの子供が3人来た。 一人は足が一本無い。小銭でいいから恵んでくれと言っていた。わたしはしょうがないかと思い、持っていた金額で一番 小さな金額の紙幣を渡そうとした瞬間、現地のコーディネーターが「だめだ!」とを止めた。 物乞いの子供たちはその瞬間にどこかに散らばってしまった。

「お前は親切でそれをやろうとしたのか?」

「あ、はい」

「その紙幣は彼らにとってどれぐらいの価値があるのか知っているのか」

「いえ」

「お前はとてもとても高価な贈与を彼らにしようとしていた。これの意味もわかるか?」

「いえ、ごめんなさい」

「彼らが自立できなくなるということだ。日本人の旅行客の背中で2分ほどごねれば飯が食える、という職業を作ってしまおうとしていた。これのどこが親切なんだ?施しと思ってやっているんだったらお前は反省したほうがいい」

わたしはそのときに深く自分の傲慢さを恥じた。 わたしがしようとした「お恵み」をいただくために、子供が産まれてきた時に足を切断する親もいることを教えてもらった。恥ずかしながら「ものをあげること」がこんなにも悪影響を及ぼす可能性があることに20代のわたしは気づいていなかったのだった。

だから、わたしは老婆を無視した。 パリの街中にいる物乞いや道案内を希望する輩、やたら話しかけてくる奴らには目も合わせず目的の道をズカズカと歩いて過ごした。

でも、老婆は毎日挨拶をしてくる。 「Bonjour」 最初の日に顔と姿を見て以降、彼女を見ないようにした。

クラクションと、人の動く音、乾いた空気と共に妙に生々しく覚えているその声 「Bonjour」 わたしはランドスケープの一部として彼女を取り込んだ。

最終日。荷物をまとめ、少し早い時間にアパルトマンを後にした。 キャスターの壊れたキャリーケースをクルクル回しながら器用に移動させていくと、そこに例の老婆がいた。 不意に、目が合ってしまった。少しひんやりした空気を感じつつ、沈黙がわたしたちを包む。 ポケットには帰国するともう不要になってしまう数ユーロ数セントが入っている。これらをポケットの中で握りしめながらわたしはわたしの中でルールを決めた。

もう一度「Bonjour」と言ってくれたら、この小銭を老婆にあげよう。毎日同じ挨拶をしてくれたことに対する感謝として全てコップに入れてあげよう。そう思った瞬間に、老婆は口を開いた。

「你好(ニイハオ )」

わたしは、少し、笑ってしまった。 「違うよ、ジャポネだよ」と思った。

そしてわたしのルールからずれてしまったので小銭は渡さなかった。 彼女なりに気を引こうと頭を使った結果だったのはわかっている。しかし彼女は間違ってしまった。 わたしはその小銭をチャラチャラさせながら空港行きの地下鉄の自販機でオランジーナを買った。 多分残りの数セントは今も家の引き出しのどこかに入っているはずだ。 あの体験以降、誰かのためを思って発言したり、行動したり、助けたりする時、あの老婆の声を鮮明に思い出すようになった。 「Bonjour」 その挨拶の言葉は、わたしにとって別の意味を持つこととなった。

それはインドネシアのコーディネーターの「叱責」と同じ意味であった。 「お前はお節介だから、誰かのためになにかしてあげないといけないと今後も思い続けるだろう。そうなると周りが見えず自分が一番気持ちよくなっているだけの時が来る。それはお前のエゴなのだ」と。

わたしは、あの時小銭を老婆に渡さなかったことを後悔している。 わたしが独りよがりな贈与を行おうとした時に、引き留めてくれる言葉をくれた魔女か天使だ。

ワクチンを打ったら、また小銭をもって朝方グランプールヴァール駅近くのパン屋に行こうと思う。 それまでくたばらず生きていてほしい。 次は私から挨拶する。びっくりするだろうな。「你好(ニイハオ )」って。

そう思いながらもあれ?これも独りよがりな贈与なのだろうかと思い始めた時、 「Bonjour」と頭の中で響くのである。

"I am reading a book called "What is Altruism? It is a book in which five scholars present their theories on altruism.

I have changed my way of thinking drastically in the past year. The key word is altruism. The key word is altruism, which is a difficult word to interpret and includes words like charity and giving. When I was reading the book, I remembered something from a long time ago.

From May to June of 2015, I stayed in Paris for a month by myself for my previous job. I walked to work from my apartment in the 2nd arrondissement of Paris, which is a 5-minute walk from the Grand-Poulevard station, to the 1st arrondissement where I worked.

I left my apartment at 7:00 a.m., ate breakfast at a café in the 1st arrondissement, and started work around 8:00 a.m. The time I finished work varied from time to time. The time I finished work varied from time to time, but I was usually done by 2pm. After that, I spent my time walking around the city and going to museums like an adult summer vacation. When I think about it now, I can't thank the people at my previous job enough. I am truly grateful.

There is one thing that I remember strangely from that time.

When I was commuting to work for the first time, I saw an old beggar woman sitting on the ground at the right corner of the bakery. I think she was wearing a dark blue robe. She had gray hair and dark skin. Most of the beggars had dogs with them, or cardboard signs with "SVP" written on them, but she had nothing, just a cup for coins in front of her body.

I walked in the direction of my office through the sidewalk with the old woman. Just as I was about to walk right next to her, she greeted me with a slow, hushed "Bonjour. I ignored the greeting and headed for the first district.

I clearly remember the reason why I ignored him. It was in Indonesia, where I had been the year before.

I was eating an extremely spicy and greasy lunch on an outside terrace when three begging children came up behind me. One of them was missing a leg. One of them was missing a leg, and he was asking for some small change. I thought it was no use and was about to give them the smallest amount of money I had, when the local coordinator said, "No! The local coordinator stopped me. The begging children were scattered all over the place at that moment.

"Did you try to do it out of kindness?

"Oh, yes."

"Do you know how much those bills are worth to them?

"No.

"You were going to give them a very, very expensive gift. Do you know what this means?

"No. I'm sorry.

"It means they will not be able to stand on their own. They were trying to create a profession where they could get a meal on the back of a Japanese tourist for two minutes. How is this kindness? If you think you're doing this as a charity, you should reflect on what you're doing.

I was deeply ashamed of my arrogance at that moment. I was told that some parents amputate the legs of their children when they are born in order to receive the "blessings" I was trying to give. I was embarrassed to admit that in my twenties, I hadn't realized that giving things away could have such a negative impact.

So I ignored the old woman. I spent most of my time walking down the streets of Paris without making eye contact with the beggars, the people who wanted to give me directions, or the people who just wanted to talk to me.

But the old woman greeted me every day. "After the first day I saw her face and figure, I tried not to look at her.

I remember the horn, the sound of people moving, the dry air, and the voice, strangely vivid.

The last day. I packed my bags and left the apartment a little early. As I dexterously moved my broken carry-on case around in a circle, I saw the old woman. Suddenly, our eyes met. The air was a little cool, and silence enveloped us. I had a few euros and a few cents in my pocket that I would no longer need when I returned home. As I clutched them in my pocket, I made a rule in my mind.

If she says "Bonjour" one more time, I'll give her these coins. I'll put them all in a cup as a thank you for saying the same greeting to me every day. Just as I thought this, the old woman opened her mouth.

"You like it.

I laughed a little. "No, it's japonais," I thought.

I thought, "No, it's japonais." And I didn't give her any change, because that was not my rule. I know it was her way of trying to impress me. But she was wrong. I bought a bottle of Orangina from a vending machine on the subway to the airport with the coins in my hand. I probably still have a few cents left in a drawer somewhere at home. After that experience, whenever I speak, act, or help someone, I vividly remember the voice of that old woman. The word "Bonjour" took on a different meaning for me.

It had the same meaning as the Indonesian coordinator's "reprimand. He said, "You are a meddler, and you will continue to think that you need to do something for someone else. You will continue to think that you have to do something for someone else because you are a meddler, and there will come a time when you will not be able to see what is going on around you, and you will only feel good about yourself. That's just your ego," he said.

I regret that I did not give the old woman the coins at that time. She was a witch or an angel who gave me words to hold me back when I was about to give her a self-serving gift.

After I get the vaccine, I will go to the bakery near the Grand-Paul-Waal station in the morning with some coins. I hope you'll stay alive until then. Next time, I'll say hello to him. You'll be surprised. "You'll be surprised.

That's what I was thinking. When I start to wonder if this is just another self-satisfied gift, the word "Bonjour" echoes in my head.