年が明けてからだろうか。遥か前からだろうか。感動をしなくなった。
他者に対しては感動をしている、という自分を表す言葉を自動的に発することができる。ほぼ習慣化したこの言葉はただ、ただ、無意識に出る。
まるでパズルをはめているかのような感覚で生が推移している。このパズルは成功や失敗に一喜一憂しない。本来パズルというものは楽しいはずなのだが。
以前に患った『企業病』的な言葉に支配される感覚とは別の感覚で、また、自分の言葉はどこかへ行ってしまったようだ。少し戻ったと思ったのに。
思い返すと、感動を人生で何回したのだろうか。かろうじて『夕陽が綺麗』のような自然が生み出した感動。これは素直に身体がシンパシーを感じていたように思う。
しかし、人が生み出したもののどこに感動があったのだろうか。
ものか、ことばか、行為か。
思い返すと、無い。
そしてあったのかもしれないが記憶に、無い。
救われたという言葉、行為はある。
しかし、感動ではない。
ものからは、質の高さや、手間暇、美学、狂気を感じることはできる。
しかし、感動ではない。
わたしはものを見るときに、なるべく感覚で感受することを先行することにつとめた。これは学生のときに美術商の人に聞いたことだ。それを守ってきた。それをつづけると、自分なりの美の形は作られてきた。
しかしながら、感動にはいたらない。
それは半ば鍛錬に他者の作品を使っているのではという思いにもいたった。よく、ある作品に猛烈に感動し工芸の世界に入った、という人が羨ましく思う。
これは、わたしが孤独を選んできたからなのかと、思った。
それは与えられた孤独ではなく、自ら選択した孤独。選択がなければ発明してしまった孤独。デザインされた孤独。
ひとりっ子のわたしは数々のみんなに支えられて生きていたのだがそれの反動としての孤独を私自身が作り出している気がしている。
『孤独の発明』とはポールオースターという作家の著書のタイトルだ。以前触れたことがある著書だが最近見返してみた。
痕跡のない父の影を追い求め、所々に父が孤独を選択してきた残骸を発見するという内容のものだ。
紛れもなくその虚しい父はわたしだった。
そしてその父になりたくないと思った。
わたしはものづくりの人だ。その果ては孤独までも発明してしまうのか。
自ら選択した孤独は英語でsolitude と訳せるらしい。満足し、一人になるということだ。
しかし、今の感覚は違う。
寂しさがあり、憂いがあり、諦めがあり、その外側で、わたしが発明したわたしという機械が外界の処理を行なっている気がするのだ。それはsolitude ではなくloneliness という。
わたしはわたしを見失ってしまったようだ。機械のわたしはいつもそこにいる。周りは誰もわたしを見失うことはない。
おそらくわたしはその父にはなりたくない。
発明した孤独に対峙し作品を作ってみることにする。ようやく隠れていたわたしがいるようにもみえる。しかしその先は見えない。
発明した孤独を、さらに発明したら次の孤独はみえてくるのだろうか。